古典落語に「お血脈」というお題の噺がある。
この落語は、浄土真宗の開祖の親鸞聖人(以下、宗祖)もお参りされたとされる長野県の善光寺というお寺が噺の舞台。善光寺に伝わるお血脈と呼ばれるはんこ、何人たりともそのはんこを額に押せば過去の罪を問われることなく必ず極楽に往生できる、そんなご利益のあるはんこをめぐる噺である。
その内容は、善光寺のお血脈というはんこの大流行のおかげで、ほとんどの人々が亡くなると極楽に往生するようになる。そこで困ったのが、地獄に落ちる人々が少なくなり、不景気で食うに困った地獄の鬼たちである。鬼たちは地獄の主である閻魔大王に打開策を相談する。すると閻魔大王は、「そのお血脈というはんこを善光寺から盗んでしまえば、地獄に落ちてくる人々が今まで通りに戻るだろう。ここは地獄だからその手の強者はゴロゴロいる。この地獄の中の誰かに盗ませよう。」と。そこで白羽の矢を立てられたのが、娑婆の世界で天下の大泥棒だった石川五右衛門。閻魔大王から指名された五右衛門は、「見事盗んでみせましょう」と、娑婆の世界に帰り、善光寺に忍び込み、見事にはんこを盗むことに成功する。しかし五右衛門はその盗んだはんこを自分の額に押す。その途端、五右衛門は極楽に往生する。
作り話が前提の落語の噺ではあるが、天下の大泥棒だった五右衛門。生前は盗賊の長として、好き勝手に生きた言わば希代の極悪人と称される。そんな五右衛門も娑婆の終は、極楽への往生を切に願っていたのであろうか。この五右衛門の生き様になぞらえた行動や心情の身勝手な滑稽さが、この落語の醍醐味の一つであろう。しかし人間もこの迷いの世界を生きる、生きとし生けるものの一つである。秘める欲望をむき出しに世間を生きる人は少ないものの、心の内実は、五右衛門と似たり寄ったりなのかもしれない。
最近、浄土真宗本願寺派が発行する雑誌「大乗」を読んでいると、あるコラムで「其手常出、無盡之寶」という言葉に目が止まった。これは「浄土三部経」の一つ、「仏説無量寿経」(大経)の中に出てくる言葉である。そのコラムでは意訳として、「その手を出(合掌)してごらんなさい。今まで気が付かなかった無尽の宝ものが出てまいりますよ」と訳されていた。この言葉の読み方は、「その手よりつねに無尽の宝(云々)荘厳の具を出す」で、本来の意味は、「(阿弥陀如来が法蔵菩薩の時)その手から、いつも尽きることのない宝(云々)などの飾りの品々を出す(ことなど思いのままに行えた)」である。しかし私は、先のコラムの個人的な意訳に強く惹かれた。先の落語の登場人物である五右衛門のように、人間は何人も貪欲、瞋恚、愚痴という三毒の煩悩から逃れる術がなく、常に支配されている存在である。それは不治の重病に冒されているようにどこまでも欲深く、腹立ちや愚かさが一生涯治まることはない。黒という色を悪い意味で用いれば、人間を縦に割ろうが横に割ろうがどこまでも黒なのである。その現実に気づいて自覚した宗祖は、人間のこと、自らのことを「煩悩具足の凡夫」や「愚悪の凡夫」と表現された。だから、阿弥陀さまは、そんな救われるはずのない人間を哀れんで、無尽の宝を一つだけ常に届けてくださる。それは、常に手を合わせてお念仏をいただくこと、救いの全ての功徳が込められた南無阿弥陀仏(お念仏)という宝である。「そんなあなたを救いの目当てとして必ず救うから、お念仏(南無阿弥陀仏・なんまんだぶつ)をいただいて、安心して生きていきなさい」と。
私自身、落語に出てくる五右衛門を、滑稽に、人ごとのように笑っているが、実のところ五右衛門は、私たちの姿を写す鏡であり、私たちそのものかもしれない。このような現実を思い知らされることで、人生を生きる上で、常に謙虚さを忘れることなく、お念仏申す人生を送らせていただきたい。
<参考>
「読売新聞」
「ウィキぺディア」