重 さ

住職 釋 龍生

 今年、息子が小学校に入学する。当然、息子を取り巻く環境は、慣れた色合いから新しく別の色で一面塗り替えられるキャンパスように一変する。新年度をきっかけに学校はもちろんのこと、スポーツ少年団、習い事など、新しい世界に飛び込んでゆく。スポーツ少年団には、友達からの誘いもあって、すでに2月から参加させてもらっている。目の前に開かれる新たな環境に包まれていく息子の様子を見ていると、これからの人生にどんな喜びが訪れ、どんな悩みを抱えながら、どんな大人に成長していくのか、という想いを馳せる。しかし、どんな環境に身を置こうと、親の想いはただ一つ。何であれ、病気せず、無理せず、ただただ元気に育ってほしい。
 詩人だった杉山平一さんの詩に、「重さ」という詩がある。

ぴったりの重さというものがある。
少しの荷物は持つ方が快いときがあるのだ。
手ぶらや、はだかでは浮くようで取りつくしまがない。
足が地につくようこの悩みと悲しみを、私は大切に持って歩く。

 私たちは、誰もが人生を歩んでいく途上で、さまざまな喜びや苦しみ、悩みが、生まれてはいつの間にか消え、消えたかと思えば、また新たに生まれて、そのデコボコした繰り返しの中で生を全うしていく。その私たちの煩悩に支配されるゆえに、自己中心的に、不器用にしか生きられない姿を、親鸞聖人(以下、宗祖)は、煩悩具足の凡夫と呼んだ。 煩悩から逃れることができない私たち生きとし生けるものは、生理的に貫く本質として、なかなか仏法を受け入れることができない。そもそも仏法嫌いであるから、浄土真宗のみ教えを聞くことや、お念仏いただく心が起こらないのである。
 宗祖が、アミダさまのおはたらきを讃えるご和讃「浄土和讃」の、「摂取してすてざれば」の句の左側に、

ものの逃ぐるを追はへ取るなり

と記す。この言葉の意味は、アミダさまは、仏法を嫌う私たち、アミダさまに背を向けて、まるで鬼ごっこのように逃げ回る私たちを、追いかけてでもつかまえて必ず救い取る、という意味である。アミダさまの救いのおはたらきは、生きとし生けるもの全てに例外なく届いている。その救いのおはたらきが届いていることに気付かないのが、煩悩の支配する私たちの姿である。アミダさまは、私たちに常に届けてくださっている救いのおはたらき(お念仏)をいただくよう、果ては仏さまに仕上げるよう、常に願ってくださっている。私は、その放たれる渾身のおはたらき、私たちを救いの目的として処される南無阿弥陀仏のお名号に、心から感謝して、不器用ながらもお念仏をいただいていきたい。
 しかし、アミダさまの世界をお経でしか知らない煩悩具足の凡夫の身としては、現実として、杉山さんの詩のように、煩悩という荷物を抱えて生きていく方が、地に足がついて生き心地は良いのかも知れないのかな、とも思ったりする昨今でもある。

専教寺の本棚より

坊守 佐々木 ひろみ

「わあ、おいしそう!」「食べたい!」「作りたい!」と思わず言ってしまうような絵本が、専教寺の本棚に追加されました。絵本の題名は、
『たべものあいうえおのえ ほん』、『カレーライスだいすき』、『ハンバーグだいすき』、『オムライスだいすき』(※)です。
 以前から、寺報では、この専教寺の本棚にある絵本の紹介をしてきました。本堂にあるこの本棚には、いろいろな絵本が少しずつ増えてきていますので、法事でお参りした子どもたちを中心に、大人の方も手に取ってくださる姿をよく見るようになりました。そして、この度、ずらっと並べられた食べ物シリーズですが、文は、苅田澄子さん、絵は、いわさきまゆこさんです。絵を描いておられる いわさきまゆこさんは、専教寺のある矢掛の方なのです。それを聞いたときは、「えっ!」と驚き、とてもうれしくなりました。さらに、開いて読んでみると、とても好きになりました。
 ハンバーグが大好物の息子に、『ハンバーグだいすき』を読み聞かせしました。まず、表紙で、「おいしそうだね。これ、写真でしょ?」と、リアルな絵を写真と思い込んだようです。中を開けてみるとまた、「ほらね、写真だった。」と。そのぐらい、食材の魅力が存分に表され、どんな料理本よりも、「そうそう、そんな風になるよね」と思わせてくれる工程が丁寧に描かれています。例えば、ハンバーグを丸めているときに、手にネバッとくっついてしまう感じや、オムライスの本では、卵を包むときに、卵が少し破れてしまうところまでも描かれています。読み終えると、息子と「今度、いっしょに作ってみようか。」という話になりました。
 絵本を読むことで、何だかほっと癒やされたり、親子の和やかな会話になったりすればいいなと思います。専教寺本堂にお参りされた際には、ぜひ、手に取っていただけたらと思います。

※『たべものあいうえおのえほん』(2023年)
    『カレーライスだいすき』(2024年)
    『ハンバーグだいすき』(2025年)
    『オムライスだいすき』(2025年)

いずれも文:苅田澄子、絵:いわさきまゆこ  金の星社

「お彼岸」を迎えて

衆徒 佐々木 龍三

 3月に「お彼岸」がありましたね。「彼岸」とは、どういう意味でしょうか?
「彼岸」とは、阿弥陀さまのお浄土のことです。阿弥陀経に「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある」と説かれ、西の方角に阿弥陀さまのお浄土があると示されています。
 浄土真宗は、お念仏を申す日暮しの中、この世の命を終えるとき、阿弥陀さまのおはたらきのおかげで、お浄土に生まれ、仏にならせていただくという教えです。
 お浄土で仏になられた方々は、何をされているのでしょうか?親鸞聖人の正信偈に「阿弥陀仏の浄土に往生すれば、ただちに真如をさとった身となり、さらに迷いの世界に還り、神通力をあらわして自在に衆生を救うことができる」とあります。仏になられた方々は、お浄土でゆっくり休んでいるのではなく、お浄土からこの世に来て、いつも縁ある人に寄り添い、導いてくださっているんですね。
「お彼岸」には、お日さまが真西に沈んでいきます。私たちのために阿弥陀さまが用意してくださった西方極楽浄土を想いつつ、亡くなられた大切な方々を偲ばせていただくとともに、私のいのちは、阿弥陀さまがいつも願ってくださり、仏になられた方々が導いてくださっている尊いいのちであると感謝させていただくのが「お彼岸」です。
 さらに、阿弥陀経には、お浄土は「倶会一処」の世界とあります。仏になられた方々と倶に一つの処で会うことができる世界。私もいずれ、同じお浄土で仏として生まれ、お互い仏として再会できる世界であると説かれています。
 この半年の間、複数の知り合いとの別離がありました。
 亡くなられた方はどこにいったのか、それに答える世界があります。阿弥陀さまのお浄土の仏になられたんだ。私が死んだらどこに行くのか。阿弥陀さまのお浄土に生まれて、仏にならせていただくんだ。
 浄土真宗のみ教えは、一生涯を精一杯生き抜いた方が、この世の命を終えるとき、死んでおしまいではなく、お浄土に生まれ、仏として歩みを始められると受け止めて、敬いの心でお見送りをすればいいと教えてくださいます。別離の悲しみは尽きることはありませんが、手を合わせてお念仏するところに、大切な方々と会える世界がある、大切な方々に導かれながら生きる世界が恵まれる、そして、同じお浄土で仏として再会できる、そのような浄土真宗のみ教えに出遇えたことを有り難く思います。
「さようなら」ではなく、「また会おうね」なんですね。