本山団体参拝をして

住職 釋 龍生

 5月9日、ご門徒と共に、本山でお勤めされた親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年慶讃法要にお参りいたしました。今回は参拝定員が決められていましたので、総代さんを中心に、お寺で声をかけてお参りさせていただきました。新型コロナウイルス感染症が5類感染症に移行されて、私としても久しぶりの本山参拝となりました。御影堂にて、当法要のために定められた御本典作法により、厳かに、円かにお勤めされました。
 表白という法要の趣旨をしたためた文を、導師が拝読する場面にさしかかった時、堂内のお荘厳など厳かな雰囲気も手伝って、私は親鸞聖人(以下、宗祖)に対する想いで胸がいっぱいになりました。
 宗祖は、比叡山延暦寺での約20年間、ただひたすら自身が仏となる道を真摯に模索しながら、お釈迦さまが示されたお経に沿って修行を積み重ねました。しかし自身の中に巣くうように居座る煩悩が、修行によって悟ることを妨げて、完膚無きまでに苦悩のどん底にたたき落とします。
 七高僧の第五祖、善導大師の説く二河白道の中で、旅人が進むも地獄、下がるも地獄という状況に追い詰められる中、朧気に遠くから阿弥陀さまの「私があなたを護っているから安心して白道を渡りなさい」との声が聞こえてきます。旅人は「確信は持てないが、とにかく声を信じて前に進もう」と、水火の荒れ狂う隙間から見え隠れする人ひとり通れるか通れないかの細い白道を、進む決意をする場面があります。宗祖もその旅人のように、自分が救われる道はないのか、という絶望と苦悩の逡巡の末、比叡山を降りました。そして、六角堂に参籠しながら、自分が救われる仏法を請い求めて、法然聖人(以下、法然)の元に参ります。
 宗祖は、お師匠さまの法然に、お念仏ひとつで救われる阿弥陀さまのご本願(私たちを必ず救うと誓われて完成された願い)の教えをいただき、煩悩具足の凡夫である自分でも救われる道を示されて、お念仏の教えに導かれました。宗祖は、法然がいなければ、お念仏の教えに遇えなかったかもしれませんし、浄土真宗の御開山として存在しなかったかもしれません。
 法然は、浄土教を従来の日本仏教の中に、「万人が救われる仏教」として、あらたに顕されて、浄土教を一宗と位置づけられました。また自身の門弟の個々の能力に合わせて、阿弥陀さまが示すお念仏の教えを、対機説法という形で説かれました。その結果、門弟によるお念仏の教えへのさまざまな解釈が生まれました。そこで宗祖は、法然から間違いなく受け継いだお念仏の教えの真意を示すために、あらためて体系づけられました。それが浄土真宗のはじまりです。
 以上のことからも、宗祖の浄土真宗を立教開宗するまでの道のりは、自身の救われる道を真摯に突き詰められた、苦悩の道でありました。また阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきの前に曝け出される自身の現実の姿に、恥じながらも、だからこそ救いのめあてなんだ、と生きる意欲を見い出す希望の道でもありました。今、浄土真宗のみ教えが、そんな宗祖のご労苦により、自分の身に届いている奇跡的な宿縁を噛みしめながら、ご門徒の皆さんとともに正信偈を味わい、お念仏をいただきました。
 最後に、参拝したご門徒の皆さんと本山の大法要という宗教空間の中で、ともにお参りできましたこと、また共にお念仏をいただくことができましたことを、とても嬉しく思っております。

仏婦会員の皆様へ

会長 石井 町子

 暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
 ここ数年コロナ、コロナの中で過ごして参りました。その上に異常気象が続き、皆さん大変な思いをされているのではとお察しいたします。
 常日頃、心のよりどころとされる、お寺さんの行事も、ほとんど休止状態でしたが、時間短縮しながら行ってくださっています。また、笑顔でお会いできることを願っています。
 先日、お盆参りに住職さんがおいでくださり、久しぶりにお話ができ、心が和みました。その時、本願寺新報を届けてくださいました。内容は、浄土真宗のみ教えや仏事の作法など、門徒として知っておきたい仏事の基礎を、クイズ形式で楽しみながら学んでいくというものでした。久しぶりに懸命に取り組むことができました。何回でも繰り返し取り組むことで、身に付いていくのではと楽しんでいます。よく考えてみますと、心のよりどころを無くしていっているすさんだ世の中で、いつも寄り添ってくださっている阿弥陀様のお計らいかしらと思い、感謝しています。
 仏婦の活動は、先般の総会の話し合いで、これまで通り進めていくことになりました。
 またお会いできることを楽しみに、お互いにお念仏の日を過ごしましょう。 合掌

仏婦総会

坊守 佐々木 ひろみ

 6月24日、4年ぶりに仏教婦人会総会を開催することができました。当日は14人が本堂に集まってくださいました。「まあ、久しぶり。元気だった?」と、お互いに声を掛け合う方、「本堂にお参りするのも何年ぶりかしら。」と言われている方、それぞれに、笑顔で再会を喜びました。
 総会では、次の2つのことが中心になりました。まずは、研修報告。仏婦会員の佐藤ゆかりさんが、4月の「備後教区仏教婦人会連盟総会並びに幹部研修会」と、5月の「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」に参加されたので、その研修報告をしてくださいました。お聴聞された内容、体験されて心に残ったことなどを、とても分かりやすく伝えてくださいました。聞いていて、「ああ、私も行きたかったなあ。」と思えるようなお話でした。
 次に、今後の仏教婦人会についてです。コロナ禍により、しばらく専教寺仏教婦人会の行事、会費納入を止めていましたが、再開していくことになりました。また、対外的なもの(仏婦総連盟の行事、各種研修、備後教堂の清掃など)について話し合いました。実は、これらは今まで仏婦役員の方を中心に参加していたのですが、高齢化も進み、役員だけでは出席を続けていくのが難しい現状にありました。そこで、会場におられた方々に、「もし研修があれば参加したい方?」と尋ねてみると、数人、手を挙げてくださいました。また、この場におられない方でも、研修などに行ってみたいという方がいらっしゃれば、ぜひ参加していただきましょう、ということになりました。このようなことで、対外的な仏婦行事に、専教寺仏教婦人会として今後も参加していくことになりました。
 総会に参加された皆さんが、専教寺仏教婦人会について前向きに考えてくださったので、今後の明るい展望を持てる、有意義な会になったと感じています。ありがとうございました。また、今回参加できなかった方々にも、日頃の感謝をお伝えするとともに、これからもよろしくお願いいたします。

慶讃法要、世界仏婦大会に参加して

門徒 佐藤 ゆかり

 本願寺では、目にも鮮やかな銀杏の木に迎えられ、とても清々しい気持ちになりました。御影堂に上がる渡り廊下の床に、見覚えのある擬宝珠の型を見つけて、その型が待っていてくれたような懐かしい気持ちになりました。
 法要では、広い御影堂にぎっしりと人がいっぱいでした。印象深かったのは、「新制 御本典作法」です。これは、新たに制定されたお勤めで、伝統的な声明と大衆唱和の両面を兼ね備えたお勤めだそうです。平素聞いてなじんでいるお経の文言ですが、微妙に調子が異なり、声明の声が「歌」になって、真っ直ぐに自分に向かってくるようでした。気持ちが落ち着き、心が洗われるようで、ありがたい気分になりました。
 その後、ご門主さまからお言葉がありました。淡々と話されるお声を聞くうちに、なぜか穏やかな気持ちになり、目の前に明るく白い空間が広がっていく感覚になりました。これも、私にとっては、不思議な経験でした。
 午後は、世界仏教婦人会大会でした。会場の京都国立国際会館は、大変目を引く建物でした。山を背景にした大きな池には、噴水があり、白鳥も泳いでいました。
 ワークショップでは、華道家元池坊による生け花パフォーマンスを見ましたが、他にも、折り紙で蓮を作るコーナーなどもありました。
 交流会では、日本人と海外からの参加者が混じるように六人ずつのグループで座るようになっていました。私の右隣はカリフォルニアの方で、自分たちで作った携行本尊(缶)を、左隣はカナダの方で、自分で縫ったというお手拭きとカナダの仏教教会の写真とバッジ、メイプルシロップの飴などをプレゼントとして用意されていました。カリフォルニアの方は、日系でしたが、家族は浄土真宗ではありません。小学生の頃から家の近くにあった寺に毎日のように遊びに行っているうちに、この宗派がよいと思って門徒になったとのことでした。この話から、キリスト教徒が教会に行くように、寺(仏教徒の教会)が身近な存在で、日常的に行くところとなっていることや、信仰する宗教をもっていることが当たり前である欧米社会の方が、現在の日本よりも、社会全体としては、信心深いのではないかと思いました。
 翌日の記念講演では、森田眞円先生のお話を聞きました。その中で、

自分がコップを割ると、「コップが割れた」と言う。自分以外の者がコップを割ると、「コップを割った」と言う。このように、私たちの至らなさを日常生活の中で、気付くことができる。私たちは、煩悩に負けて、仏に包まれていることに気付かない。

という話が印象に残りました。(紙面の都合上、省略して記載しています。ご了承ください。)