今年は桜の開花が例年に比べて少し早かったのではないだろうか。桜には不思議な魅力があると、春の季節を迎えると改めて思う。咲くと人々の心を躍らせる華やかさ、またしなやかに力いっぱい咲いて散りゆく短い命のはかなさ。朝の桜や夜桜、桜にはどの顔にも人々を魅了する力があり、その気になれば一日中眺めていられる。
二歳の息子が、今年こども園の入園式を迎えた。親心も手伝ってか、満開に咲き誇った桜が、暖かなそよ風に心地よく揺られる木の下を、息子と手を繋いでこども園に向かうことを夢見ていた。現実に夢はかなわず、息子の入園式を迎えてくれたのは、春の新緑の訪れを告げる葉桜だった。
桜と言えば、ある雑誌で昔話にある「はなさかじいさん」に関するコラムを読んだ。「はなさかじいさん」のあらすじの全体は省略するが、この話に、飼っていた犬の形見である臼の灰を、枯れた桜の木にまき散らすと、あっという間に桜が咲き乱れた、というくだりが出てくる。しかし果たして、枯れた桜の木に灰をまくことで、桜の花は実際に咲くのだろうか。先のコラムでは、このことを検証するという内容であった。結論としては、枯れた木は論外として、花芽をつける木にいくら灰や植物、主に葉から分泌される花芽の開花をうながす物質を粉状にして、まいても花を咲かすことはできないということだった。
科学が常に日進月歩する昨今であるが、分からなければ分からないままでいいこともある。昔話は昔の人が作った子どもへの人生訓として、今後も子どもたちのヒーローであってほしい。
灰をまけば、桜が咲き乱れる昔話にふれていると、現実に、泥の中からきれいな花を咲かせる蓮の花を思い浮かべる。旬の季節、池に咲く蓮の花を眺めていると、本当にこの泥や濁った水を養分として咲かせたのだろうかと疑うほど見事である。「蓮は泥から生じても、泥に染まらず」とはよく言ったものだ。よく泥や濁った水を、娑婆世界や私たちの眼をさえぎる煩悩に、蓮をお浄土に壮麗に咲く花や仏さまの悟りにたとえられるのもうなづける。よくお寺の境内の池に植えられる由縁であろう。私たちも阿弥陀さまのおはたらき(南無阿弥陀仏)をいただいて、そのまま、ありのままで、娑婆の果ては、お浄土に参って、仏さまに仕上げていただく。だから親鸞聖人は、阿弥陀さまのおはたらきを、他力廻向の信心、本願力廻向と表現された。私たちは皆、泥や濁った水と同様の娑婆という煩悩に満ち満ちている苦海を一生懸命、泳いで、泳ぎきろうと、辿り着けるかどうか見当もつかない岸をめがけて迷いながら生きている。だからこそ阿弥陀さまは、必ず救う、我にまかせよ、と彼の岸(彼岸)から、私のそばで常に呼びかけておられる。まさに泥の中から咲いたと想像もつかない蓮の花のような、仏さまと生まれ変わらせていただくのである。
最近、テレビのニュースを見ていると、子どもの虐待、殺人事件やあらゆる詐欺、国と国との地球をめぐる覇権争いまで、聞くに堪えないニュースが、毎日垂れ流されている。しかしどんなに喚こうが、騒ごうが、阿弥陀さまからすれば、人間の行いは所詮、井の中の蛙大海を知らず、六道の迷いである。
あるテレビで、なぜ、さえない役者を大根役者と呼ぶ、というクイズを出していた。その答えは、大根は比較的食あたりを起こさない安全な野菜。だから大根をいくら食べてもあたらないように、下手な役者がいくら芝居をしてもあたらないところから、ということであった。しかし逆に、大根という野菜はある意味万能である。出汁が染みこめば、出汁によってはさまざまな味が楽しめるし、おろすと胃の消化を助ける食材にもなる。たくあんなど干してもおいしい。何より食あたりを起こさないというところがとても魅力的だ。当たり障りなく、しかし万能に。私は、お念仏をいただきながら、こんな生き方ができれば、と常に思う。