新型コロナウイルス感染症により、さまざまな行動が制限される中、それに伴いイベントやスポーツの大会が中止されている。私の好きなプロ野球も開幕が段階的に延期となり、例年の開幕より約3ヶ月遅れての開幕となった。必然として年間の日程は短縮されるが、野球ファンとしては開幕に漕ぎ着けたこと自体が奇跡のようで、素直に嬉しい。
「がんばらない、楽しむ」この言葉を、6月に門前に掲示する法語とさせていただいた。この言葉は、かつてプロ野球の阪神や日本ハム、またメジャーリーガーとして活躍した新庄剛志氏が、あるテレビ番組で話していた言葉だ。新庄氏は、去年、再びプロ野球選手に復帰すると宣言した。今年で48歳、常識から考えればかなり無謀な挑戦と言えるだろう。そのテレビ番組では、インドネシアのバリ島に住む新庄氏に数日間密着して、その挑戦に対する心境や熱意をインタビューしていた。新庄氏は、プロ野球選手復帰を挑戦する理由に、現在、難病に冒されている姉に、華麗な守備やしなやかなバッティングで球場やテレビの前のファンを沸かせたかつての勇姿を再び見せたいということ。また、将来に対する夢を持てない現代の子どもたちに、どんなに不可能と思われる事であっても必ず成し遂げられることを現実に見せたい、という思いを語っていた。ただ新庄氏と言えども48歳でのプロ野球選手復帰は現実的に難しい。肉体やセンスはあれども、加齢によるさまざまな衰えはどうしようもない。それを補うためのトレーニングは、本人しか分からない苛酷を極める厳しさの連続であろう。そのテレビ番組では最後に、「新庄さん、がんばってくださいね」と声をかけた。すると新庄氏は、笑顔で「がんばらない、楽しむ」と答えた。苛酷を極める厳しさの中での先の言葉、なかなか真似はできない。
浄土真宗の所依の経典、浄土三部経の「観無量寿経」に、「摂取不捨」という言葉がある。摂取不捨とは、阿弥陀さまは、救いの全てが込められる南無阿弥陀仏、お念仏をいただくものは、何があっても決して見捨てることなく必ず救う、という意味である。他の宗旨の仏教ではこの世(此土)で、悟れるものである仏さまになるために、仏さまに近づこうと修行をする。しかし浄土真宗では、私が仏さまになるための修行を、経典に示される通りに実践しても、仏さまの力が無ければ難しすぎて中途半端にしかできない。仏さまはそんな私をあらかじめ見抜いて、寄り添って決して離れることなく、 お念仏を通して救い遂げるべく常にはたらかれる、という教えである。だから阿弥陀さまは、「無理してがんばらなくていいよ、私が必ず救うから、私が経典で教えている通りに、お念仏をいただいて生きなさい」と、浄土三部経を通してお示しくださる。
新庄氏の現状は、普通の人の目には、死に物狂いで頑張らなければならない状況に映るだろう。しかし、極限にまで追い込まれている状況だからこそ敢えて、「がんばらない、楽しむ」というスタンスが、目的を達成するモチベーションを保つ上で必要不可欠なのかもしれない。私たちも本来救われるはずのないもの、煩悩具足の凡夫である。救われるはずがなくて、極限にまで追い込まれている状況だからこそ、阿弥陀さまは必ず救って決して見捨てないとお示しになられる。私たちも「がんばらない、楽しむ」と、お念仏をいただく人生を送ることができればと切に思う。