専教寺寺報2020年春号

倒木更新

住職 釋 龍生

 日本の季節的慣習からすれば、とりわけ三月は別れの季節、四月は出会いの季節であろう。定年や転勤などで職場を去る人がいれば、新たな希望を胸に新しい世界に進む人もいる。この時期、春の風がその訪れを心地よさそうに、数多の花びらを舞い上がらせるように、無数の悲喜の宴とともに、日本全国が春の風物詩に心躍らせる季節である。
 しかし、今年はその春の訪れを、日本全国が新型コロナウィルス感染症の蔓延という非常な苦境の中、消え入るように、また静かに迎えなければならない。新緑の季節になれば、寺のある町の山々は、新芽が芽吹いて山全体が明るい黄緑色に包まれる。自身は毎年、新たな生命をつむぐその光景を前に、凡庸に不確かではあるが何らかの希望を抱き、気分が清々しくなるのだが。
 あるドラマで、倒木更新(とうぼくこうしん)という言葉に出遇った。そのドラマは、幸田文(こうだあや)の「木」という本から、「えぞ松の更新」というエッセイを紹介していた。倒木更新とは、寿命や天災、伐採などによって倒れた古木の上に着床、発芽して、新たな世代の木が一直線に並んで育つことである。
 幸田氏は、実際に北海道で、世代交代を抗うことなく、亡骸のような腐朽古木と、その上にふみいだして生きる若木の倒木更新という現象を目の当たりにして、自然の苛酷さ、無惨さを痛感する。
 しかし、斜面に立つ倒木更新で育ったえぞ松の描写においてこう述べている。

「それは斜面の、たぶん風倒の木の株だろうという、その上にすくっと一本、高く太く、たくましく立っていた。太根を何本も地におろして、みるからに万全堅固に立ち上っており、その脚の下にはっきりと腐朽古木の姿が残っていた。いわばここにいるこの現在の樹は、今はこの古株を大切にし、いとおしんで、我が腹のもとに守っているような形である。」

また、

「古木の芯とおぼしい、新しい木の根の下で、乾いて温味をもっていた。(中略)古木が温度をもつのか、新樹が寒気をさえぎるのか。この古い木、これはただ死んじゃいないんだ。この新しい木、これもただ生きているんじゃないんだ。生死の継目、輪廻の無惨をみたって、なにもそうこだわることはない。あれもほんのいっ時のこと、そのあとこのぬくみがもたらされるのなら、ああそこをうっかり見落とさなくて、なんと仕合わせだったことか。」

 えぞ松の倒木更新という古木と若木の関係は、様々な状況に翻弄されながらも、種をこの地球上に残すために、支え合って主体的に生き抜こうとする生命の物語である。そこには古木と若木が互いに思う恵みの心が備わっているように思えてならない。
 浄土真宗の七高僧(しちこうそう)の第四祖の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、その著書「安楽集(あんらくしゅう)」に、

「前(さき)に生(しょう)ずるものは後(のち)を導き後に去()かんものは前を訪(とぶら)ひ、連続無窮(れんぞくむぐう)にして願はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆゑなり。」

と説かれる。この意味は、前に生まれる人は後のものを導き、後に生まれるものは前の人をたずね、このように前後続いて止まることのないようにしよう、これは数かぎりない迷いの人々をことごとく救うためである。という意味である。古木のおかげで若木が育つように、私たちも浄土真宗のみ教えを今日まで、伝えるためにご尽力された仏さま、先達、先祖の存在があればこそ、今、そのおかげで救いの全てを顕すお念仏をいただく人生を歩ませていただくことができる。そのお念仏をいただくこと、すなわち阿弥陀さまからいただく信心こそが、幸田氏のいう温味なのかも知れない。
 冒頭で三月は別れの季節、四月は出会いの季節と述べた。いや、実は去る者は新たに来る者に、何らかの形で温味を残し、来る者も、去る者から残された温味を知らず知らずに受け取っているのかも知れない。

<参考>
「木」幸田文 新潮社
「聖典意訳 七祖聖教 上」
本願寺出版協会
「ウィキペディア」

阿弥陀さまがいつもおそばに

坊守 佐々木 ひろみ

 永代経法要や報恩講法要、本山や備後教区の研修などのご法話で、よく「阿弥陀さまは、いつもそばにいらっしゃって、なんとしても私たちを救おうとしてくださっている」ということを教えていただきます。それは、阿弥陀さまが一緒にいてくださるということです。
 先日、本願寺新報で『「お母さんと一緒」と「お母さんが一緒」の違い』というタイトルの記事を目にしました。「ん? どういうことかな。()と()の違いなんて考えたこともなかったし、そもそもそんなに大きな違いはあるのかな」と思い、読み進めてみました。
「お母さんと一緒」のほうは、「私がお母さんと一緒にいる」つまり、私が主人公と考えて、“ 私がお母さんと居たくて一緒に居る”という意味にとらえることができます。「お母さんが一緒」のほうは、私は居たくなくても居る。つまり、お母さんが主人公となり、“ 私がお母さんを忘れていてもお母さんが私を忘れることなく一緒にいる” という意味にとらえることができます。
 記事を書いておられる先生は、この例えを使って、「阿弥陀さま一緒」ということを説明してくださっていました。そして、「阿弥陀さま一緒」にいてくださる理由を次のように言われていました。「私たちは阿弥陀さまから逃げているのです。逃げる私を阿弥陀さまの方が追いかけてつかまえてくださるのです」また、「人はみな、死ぬ時はたった一人です。今まで支えにしていたものの全てが、私を見放します。また生きている今、たった一人になることもあります。あらゆる支えを失って自分で自分を見捨ててしまうような気持ちになることもあります。しかし、たとえ世の中の全てに見放されたとしても、自分で自分を見捨てるようになったとしても、阿弥陀さまだけは私を見捨てることなくご一緒くださるのです。」と。
 私なりに考えてみました。私たちが逃げている、または、無視しているという表現をされることがありますが、それは、阿弥陀さまのおはたらきに気づいていない、知っていても多忙な日常生活の中で忘れている、ということでしょうか。たしかに、大きなはたらきに包まれていることには目を向けず、目の前で起こる出来事や自分勝手な考えに振り回されていることは多々あります。
 私がこのようなお話に出遇えたことも、阿弥陀さまが一緒にいてくださっているからでしょう。ありがたいことだなとあらためて思うご縁をいただきました。

専教寺の臥龍松の紹介映像を 倉敷市公式YouTube「高梁川流域デジタルアーカイブ」で観ることができます。

コロナよりも怖いのは人間?

衆徒 佐々木 龍三

 ドラッグストア店員の方が、ツイッターに次のような投稿をされていました。
「十二年勤めてきて、良い時も悪い時もありましたが、楽しく勤めてきた仕事だったのに。二ヶ月前。まさにコロナにより、マスクの供給不足となった頃から毎日毎日同じことを聞かされて、あげくキレられたりと増えてきました。『マスクの入荷はいつ? 』『いつもないじゃない! 』・・今まで笑顔だったお客様が、全員鬼に見えます。購入数量の規制もかかり、多く持ってきた方に説明すれば、不服そうに文句を言われます。・・ドラッグストア店員としては、コロナよりも怖いのは人間だと思います。目に見えないものより、目に見える人間が怖いです。優しかった人々が、殺気立って、とにかくイライラをぶつけてきます。よく考えてください。医者も研究者も頑張っています。マスク業者も頑張っています。店員だって、今までの人数でひたすら頑張っているんです。・・謝ることに疲れました。私はウィルスよりも、人間が怖いです。ストレスで、声をかけられるとビクッとし、またマスクだ、消毒だ、と恐怖です。・・どうか落ち着いてください。それを願うばかりです」というものです。
 投稿全文ではありませんが、この文章を読まれてどのように思われましたか?
『歎異抄(たんにしょう)』の中に、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」

とあります。私たちは、縁に触れたら何をしでかすかわからないものを持っています。
 私の気持ちと行動は、環境や状況次第で変わってしまいます。自分の心に余裕があるときは、相手のことまで気を配れますが、余裕がないときは、相手のことまで考えが及ばず、自らの思いにとらわれて、自己中心的な行動をしてしまいがちです。この行動が相手を傷つけることがありますが、気づかないことが多いようです。
 このような私であることを、気づき省みることが必要ではないでしょうか。
 しかし、私一人をたよりとしていては、なかなか気づくことはできません。なぜなら、「自分の都合というものさし」を判断基準として生きているからです。
 浄土真宗は、分け隔てなくあらゆる人びとの幸せを願っておられる阿弥陀さまにおまかせする教えです。そのような仏さまの見方やお心を理想の姿として、たよりとし、仏さまと同じようにはできませんが、わが身に気づいて省みたときには、仏さまの真似事でもさせていただく、これが念仏者の生き方だと思います。
 このようなときこそ、ご門主さまが示された『私たちのちかい』を共々に大事にしていきたいと思います。
 現在、新型コロナウィルス感染症が収束する目途がたっておりませんが、皆さまどうかくれぐれもお身体にお気をつけください。

永代経法要ならびに行事・法要に関する重要なお知らせ

 慈光のもと、門信徒の皆様にはお念仏ご相続のこととお慶び申し上げます。
 さて、新型コロナウィルスの感染拡大が、日々深刻な状態となっています。多くの人が集まることや、近距離で会話や発声することが感染拡大につながると言われています。そのような状況を考えた時、専教寺でも4月より予定しておりました行事について、以下のような決断をせざるを得なくなりました。

 今年度の永代経法要は、新型コロナウイルス感染症の拡大により、門信徒の参拝を中止します。

 当面の行事、法要は、新型コロナウイルス感染症の拡大により中止します。

 新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、ご理解いただきますようよろしくお願いいたします。
 なお、永代経法要につきましては、仏さまになられた先達のご縁に遇わせていただくと同時に、お念仏のみ教えをいただく私達が、社会を共に生きる上で本当に大事なことは何なのか、考える機縁として仏縁に遇わせていただく大切な法要と考えておりますので、4月26日(日)に寺族のみでお勤めをさせていただきます。

 どうぞ皆様、お体に気をつけてお過ごしください。