ご挨拶

住職 釋 龍生

 新年あけましておめでとうございます
 今年もよろしくお願い申し上げます

 僧侶として、また住職となってから、毎年、年末年始はあれやこれやと時間に追われる日々を送っている。年末は法務や事務に明け暮れる中、気がつけば新年を迎えていたという感じがここ何年か続いている。昔は年末は、待ちに待った冬休みを迎える嬉しさと、年末の慌ただしさに心を躍らせた。また年始には、暦の上では数日しか変化がないにも関わらず、新しい年を迎えたという現実からか、不思議と年末とは一味も二味も違うその雰囲気に、子供ながらに普段より身を引き締めながらその風物詩を楽しんでいたと記憶している。総じてそこには今と変わらないはずの時間の流れが、今よりゆったりと流れていたような気がする。
 昨今の社会の風潮として、合理化という言葉をよく耳にする。その風潮は私たちの日常の生活にも急速に変化をもたらしている。昔は心待ちにしていた、楽しかった季節の風物詩が徐々にではあるが無くなっている。そこには環境の変化に伴いやむを得ず消滅するものもあれば、人間が簡素化を目指して故意に無くしたものもある。昨今の社会の変化が速すぎて、人間を含む生きとし生けるものの暮らしが、将来の社会の作り出すものに押し潰されないか心配になる。
 最近、新聞で石垣りんさんの詩に出遇った。「新年の食卓」という詩である。その一節を述べれば、

  元旦に、家族そろって顔を合わせる
  おめでとう、と挨拶したら。
  そこであなたはどこからおいでになりましたか、と尋ねあうのも良いことです。
  ほんとうのことはだれも知らない
  不思議なえにし
  たとえ親と子の間柄でも
  いのちの来歴は語りきれない。

 社会の風潮が急速に変化する世の中ではあるが、年末年始の帰省ラッシュのニュースを聞くと、なぜか気持ちが和やかになる。年の節目に故郷に帰り、家族や親戚、友人知人と再会を喜び、近況を報告し合う。再会を成せるのは、遠い過去から今に至るまでのすべてのいのちに支えられているといういのちの育みの成せるものであろう。あらためて親鸞聖人の言葉が身に沁みる。

  一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり

 新年に食卓を囲んだ時、先の詩のように家族、親戚と語り合うのも良いかも知れない。そこにはゆったりとした時間が流れるのではないだろうか。

坊守 佐々木 ひろみ

 あけましておめでとうございます
 昨年はお世話になりました
 本年もよろしくお願いいたします

 専教寺の大晦日。紅白歌合戦の後半になると、「そろそろやな」と住職が厚着をして境内に出ます。境内は真っ暗なので、来られた方の足元を照らすスポットライトを取り付けます。そして、秋の松の剪定の時に、植木屋さんにお願いして取っておいた松葉を、焚き火用の缶とともに用意します。火をおこして準備ができ、11時45分になると、いよいよ除夜の鐘「ゴーン」の音が響きます。少しずつ、お参りの方々が来られます。来られた方から本堂にお参りし、鐘をつくと、温かいお茶を飲みながら焚火にあたられます。焚火の周りでは、お参りに来られた方同士で語り合う姿が見られます。今年はこんな年だったなあ、とか、最近こんなことがあってなあ、などという話が聞かれます。そんな話を聞きながら、今年も皆さんに支えられて過ごすことができ、ありがたかったなあと感じています。
 無事に除夜会を終えるころには、年が明けて一時間ぐらいが経過しています。数時間後には、朝のお参りに来られるので、境内を片付けないといけません。夜中にもかかわらず、片付けを手伝ってくださる方には本当に感謝しています。
 そして元旦。さっき寝たばかりだな、と思いつつも、初日の出を見るとやはり、清々しい新年の始まりを感じます。慌ただしく準備を済ませると、元旦会です。ご門徒の方々が本堂に集まられ、正信偈をお勤めします。住職の新年の挨拶を聞いた後、皆さんでお茶を飲みながら歓談します。元旦のお勤めは、背筋がしゃんとする思いです。今年の抱負なども心に浮かべながら、気持ちを新たにします。
 このように、忙しい年末年始ですが、一年の節目をお寺で迎えることができてありがたいと思います。除夜会、元旦会に参られたことがない方も、ぜひ一度お参りされてみてください。また、例年行われている「仏婦新春のつどい」ですが、今年は1月12日に行います。お正月にお供えしたお餅のお下がりを入れたぜんざいを、役員の方が作ってくださり、おいしくいただきます。レクリエーションもある和やかな会です。こちらもぜひ多くの方にお参りしていただけたらと思います。

門徒総代長 古城 哲夫

新年おめでとうございます。
 皆様それぞれの新年をお迎えのことと思います。
 豪雨災害に遭われた方には、様々な過程を経て復興への日々が続いておられることでしょう。お元気で令和二年を歩まれますよう念じます。
 皆様には、専教寺護寺のためにご理解ご協力をいただき、ありがとうございます。
 報恩講法要の朝、私たち役員は、八時から準備を始めました。剪定された境内には、紅葉半ばのもみじが映え、数枚の落葉が秋の深まりを告げています。このような落ち着いた風情が味わえるのは、法要に先がけて、皆様と行ったお磨き、草取り清掃等の奉仕があると思い起こしました。池の水換えも定期的に行って清々しい水面でした。毎年法要に合わせて、今や当たり前のことになっている奉仕作業が、いかに大切なことであるか、そしてそのことが長年引き継がれていることが、護寺としていかに貴重なことであるかと気づかされたことであります。
 当日の参拝者は、初めての人、久しぶりの人、常連の人、と様々で、避難生活を送られた方もありました。皆さんが、ご寺族やご門徒の方々と挨拶を交わされ、談笑されている光景に安堵いたしました。その方々もお寺に来られて、ほっとされていたのではないでしょうか。
 人は一人では生きていけないと、法話で話されました。お寺の本堂が、人々の心のよりどころになっていると有難く思いました。
 今年も毎年実施されている行事を一つ一つ積み重ねて護寺に努めたいと思っています。そして、お寺に参拝してお聴聞するという門徒の大事な務めを果たしていきたいと思います。本年もよろしくお願いいたします。

仏婦会長 石井 町子

 新年あけましておめでとうございます
 ご門徒の皆様にはお健やかに新年をお迎えのことと存じます

 昨年は、5月1日より年号が平成から令和へと代替わりしました。新しい年号に新鮮さが感じられ、よき時代になることを念じていました。ただ、一昨年に引き続き、自然災害が起き、多くの方々がまた災害に遭われたことをテレビや新聞等で報じられる現状に目を覆う日々でした。少しでも早い復興を願ってやみません。
 令和元年度、専教寺さんでの諸行事には、多くの方が参加くださり、ご協力を得ることができました。うれしい限りで感謝しております。
 最近、本堂の掲示板に貼られたことばに心を惹かれました。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばです。気づかれた方もあると思います。
 稲は、穂が稔るにつれ頭が重くなって垂れ下がり( お辞儀をするようになり) ます。人間も、学問や徳行が深まるにつれ、穏やかで謙虚になるもの( 地位や力があるからといって反り返って威張ったりするのはみっともない) ということです。人は穏やかで、その上、謙虚さが必要であるという教えではないかと思いました。
 まわりの人たちとのよい関係を求め、すばらしいご縁の中で誰とでも話し合える場( お寺さん)にお参りし、仏法の輪が広がりますよう念じています。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

※ 「ことわざ事典」を参考にしました。