お慈悲に抱かれて

住職 釋 龍生

 先日、笑福亭鶴瓶さん主演の「35年目のラブレター」という映画を観た。
 この映画はノンフィクションで、モデルとなったのは奈良県在住の西畑保さん、今は亡き皎子さん夫妻だ。
 80年前の戦争がもたらした戦中、戦後の社会背景の中で、誰もが精神的にも、肉体的にも蝕まれながら人生を翻弄されていった。その苦難は、保さんの幼少の身の上においても例外ではなかった。小学校2年生の時に母親を病気で亡くし、それと時を同じくして、貧しさ故のある出来事で学校でいじめに遭い不登校となった。その不登校を最後にそれ以後は、全く学校に通わなかった。その結果、文字の読み書きができないままに大人になってしまう。大人になってからの保さんは、社会の理不尽さに生きづらさを感じる中で、自身の境遇に理解を示す寿司屋の大将と出会う。そして寿司職人としての仕事を、定年まで全うすることで人生を新たに切り拓いていく。その間、奥さんとなる皎子さんと、気乗りしなかった見合いをするが、この見合いが運命的な出逢いとなって結婚する。しかし文字の読み書きができないことについては、結婚後も皎子さんには内緒にしていた。だが隠し事をするということは、大体の場合において長くは続かないものである。ある日、町内会の回覧板に世帯主である自らの署名を求められ、ついに読み書きができないことが奥さんにバレてしまう。保さんは別れることを覚悟して、その現実を打ち明ける。しかし奥さんの反応は意外なものだった。皎子さんは保さんに対して、

 「辛かったな、これから一緒にがんばろ、今日から私があんたの手になるわ、あんたが書けるようになるまでに代わりになるね」

 保さんは、皎子さんと結婚して間もない頃、皎子さんから1通のラブレターをもらったことがある。しかし文字の読み書きができない保さんには、そのラブレターが読めずに内容も分からずじまいだった。保さんは長年勤めてきた寿司屋の定年を迎えるとともに、皎子さんに自らの字で綴ったラブレターをお返ししたいと心機一転、夜間の中学に入学して、文字の読み書きを勉強するのである。
 親鸞聖人(以下、宗祖)のご和讃に、

十方微塵世界の 

念仏の衆生をみそなはし 

摂取してすてざれば 

阿弥陀となづけたてまつる

とある。
 このご和讃の意味は、数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、摂め取って決してお捨てにならないので、アミダと申しあげる、である。
 先の映画の、従来文字の読み書きができないことが奥さんにバレる場面。この時、いつも恵まれない境遇に身を置くことを余儀なくされていた保さんは、「結局、俺の人生なんて・・・」と、またもや人生のドン底に突き落とされたような気持ちだったのではなかっただろうか。だから奥さんの、自身の歩んできた人生を丸ごと肯定してくれて、なおかつ優しく包みこむような、先の言葉にどれだけ心から救われ、どれだけ安心したことだろうか。
 先のご和讃に、摂取という言葉が出てくる。宗祖はこの言葉の意味を、「一念多念文意」というお書物に、「摂はをさめたまふ、取はむかへとる」と示される。私たちは煩悩具足の凡夫であって、何人たりとも例外なく本来救われるはずのないものである。私たちの現実の姿は、救われるはずもなく、どうしようもなく、あたかも未踏の雪原を行く当てもなく、さまよい歩いているようなものである。アミダさまは、そんな極限の状態に置かれているにもかかわらず、その現実を受け入れないどころか、むしろ背を向けて逃げ惑う私たちに、「辛いね、苦しいね、でももう大丈夫だよ、あなたが仏さまになるまでずっとそばに寄り添っているよ、そして救いのはたらきが、あなたの身に沁み入るようにはたらき続けるよ」と、お念仏を通して常に優しく語りかけてくださっている。
 アミダさまは、私たちがどこにいても、どんな姿であっても、優しく手を差し伸べて、温かく包みながら、必ず救ってくださる仏さまである。私たちは、誰一人として同じではないたった一つの人生を歩む中で、さまざまな境遇を受け入れながら、精一杯生きている。しかしどんな生き方であっても、アミダさまは全ての生きとし生けるものに同じく、分け隔てなく、アミダさまのお慈悲、救いのおはたらきであるお念仏を、命を終えて仏となるその時まで、この身に届けてくださっている。私たちはアミダさまから常に届くお念仏・救いのおはたらきに感謝して、安心して二心なく素直にお念仏を いただくのみである。それはすなわち、心から救われ、心から安心するということに他ならないのではないだろうか。

感じ方のちがいを大切に

坊守 佐々木 ひろみ

 本堂に「MIDO SAN(御堂さん)」という雑誌が置いてあります。内容は、有名人のインタビュー記事やエッセイに始まり、法話や、浄土真宗の教えを易しく説いたコラムなどで構成されています。
 有名人と言いましたが、タレント、漫才師、テレビでおなじみの社長などさまざまです。それを読むと、その方の経験や考えに感心する一方で、自分自身の「思い込み」に気付かされるのです。自分がテレビで見た印象によって、「この人がこんなことを言うなんて意外だな。」と思ってしまうことがあります。会ったことも、話したこともないのに、勝手にその人のイメージを作ってしまっていたことを反省する時間でもあるのです。
 そして、その人の思い、その人の言葉というのは、その人にしかない、大切なものだということを感じさせられます。
 最近、生成AIが使われる世の中になってきました。私も、人に教えてもらって、試しに使ってみました。すると、びっくりするぐらい便利なのです。例えば、冷蔵庫の中の食材を見て、何を作ろうかなと思ったとき。「イタリア料理みたいなのを作りたい。なす、タマネギ、豚肉、・・・を使って。教えて。」などと入力すると、3秒で、材料、分量、作り方が表示されます。また、文章を書きたければ、使いたいキーワードを入れると、あっという間に作文もしてくれるのです。ただただ、驚きます。知り合いは、AIに相談をしてみたらしく、「どうすればいい?」なんて入力すると、共感したり、褒めてくれたりした上、適切な答えもくれたそうです。すごい。ですが、何だか恐ろしくなります。AIが出すものを参考にしたり、自分の考えをもった上で利用したりするのは便利でいいと思います。でも、それだけにたよると、自分で考えられなくなったり、自分の言葉で表現することができなくなったりしてしまうのではないでしょうか。
 先日、息子がイソップ物語の「アリとキリギリス」を読みました。「アリのようにコツコツ働くことは大切だ」という教訓を伝えている話です。以前から、本を読むと「その視点で見るのね・・・」と思わされる感想を時々言う子なのですが、今回も、「キリギリスは、働かずにずっと歌っていたら、食べる物がなくなって死んじゃったんだね。かわいそうだね。アリさんは、『食べ物をためておいた方がいいよ』と教えてあげればよかったのに。ばかにしちゃだめだよ。」と言いました。「なるほど、そう感じたんだね、」と思いました。それが人それぞれの感じ方であり、きっと、AIでは出てこないでしょう。
 いくら便利な世の中になっても、それぞれの感性を大切にし、自分の言葉で思いを伝えることは大切にしていきたいと思います 。