今年で6才になる息子が、早いもので来年には小学生になります。幼児が少年になる時でもあります。私たち夫婦にとっては、何もかもが初めてのことで、なりふり構わず子育てに奮闘中ですが、息子が生まれてからこれまでの時間はあっという間でした。来年から家族や息子の取り巻く環境は、新たなステージへ向けてガラッと変わります。現在、こども園への送り迎えを必要とする息子が、果たして、来年からお寺の前を登下校する小学生のように、自主的な登下校が出来るのか、親心ながらいらぬ心配をしてしまいます。ただ親にとっては心配ではありますが、楽しみでもあります。息子のために、小学校に上がるための生活用品を整えますが、子どもの成長を実感する時でもあり、嬉しさ、喜びでもあります。
最近、山陽新聞で「こどもの視点カフェ」を取り上げた記事を読みました。その記事によれば、1才ぐらいの子どもからすれば、大人は4メートルの巨人に見えるそうです。記事の筆者が実際にゴーグルを付けて叱られる体験をしてみたら、恐怖しか感じなかったそうです。また小学1年生の平均値を基に作られた「大人のランドセル」は18.9キロの重さがあり、1人で背負うことができなかったそうです。「こどもの視点カフェ」の体験の総評として、子どもがどれほど小さな存在か、私たちがいかに大人の感覚を前提にしているか、痛感させられる。と述べていました。
相田みつを氏の詩に、
そんか とくか 人間のものさし
うそか まことか 仏さまのものさし
があります。親鸞聖人(宗祖)は、私たち人間を含めた生きとし生けるものは全て、「煩悩具足の凡夫」と示されます。人間は何をするにしても自分本位の感情が、どうしてもその片隅に入り込んでしまいます。私たちは、自分自身に巣くう煩悩を、悟りを得るために自力で取り払うことができません。アミダさまは、だからこそ私の救いの目当てなんだと、南無阿弥陀仏というお念仏に、全ての救いの功徳を込めて、全力で私たちに届け続け、はたらき続けてくださっています。そして凡夫である私たちの有り様に、「ありのまま、そのままでいい」とむしろ肯定して、「必ず救うから私にまかせなさい」と、ナンマンダブツという声の仏さまとなり、口からこぼれ出て、教えてくださっています。宗祖は、アミダさまの救いのおはたらきを、よく海に譬えられていますが、高所から海を望めば、水平線が見えます。ある作家が、水平線というのはバニシングポイント。船から見ても高い山から見ても、必ず目の高さにある。と述べています。アミダさまは、どんな時でも、誰にでも平等に、同じ目線で温かく、優しく、救いのおはたらきで包んでくださっています。