遠く宿縁を慶べ

住職 釋 龍生

 5才になる息子が、就寝前、母親に毎日、絵本を読んでもらっている。寝る前になると、それをせがむように楽しみにしている。
 息子がこども園に通い始めた頃、園に迎えに行くと、教室の傍らで2、3人の子どもとともに、絵本を開いて熱心に見ていた姿を、今でも強く記憶している。
 息子が生まれた時から、その成長をともにすることで、私は今まであまり関心がなかった絵本を意識するようになった。さまざまな絵本の中でも、息子にも読んでもらいたい、「私の絵本ランキング」に、加古里子(かこさとし)氏の絵本がランクインしている。特に加古氏の代表作「からすのパン屋さん」が刊行されて、50年が経つそうだ。カラスの夫婦に4羽の子どもが生まれて、仕事と子育ての両立で大忙しの日々ながらも、家族で力を合わせて困難を乗り越えていく。我が家に子どもは4人もいないが、さながら「仕事と子育ての両立で大忙しの日々」、というのは我が家と似通っていて、共感できて微笑ましい。そんな加古氏の「人間」という絵本に、こんな一節がある。

 ひとりの人間は、年がたてば死にますが、子にわたった「生命の設計書」は「千年も万年も」生きつづけるのです。いまあなたが生きているのは、こうして「生命の設計書」が、およそ四十億年ひきつがれてきたからですし、人間のあつまりがささえとなってきたからです。そしてその「生命の設計書」は、これからも人間とそのあつまりによってうけつがれていくことをおもえば、むやみに死をおそれることもないし、死の悲しみものりこえられることでしょう。

 3月の法語に、「仏さまは教えてくれる 命はめぐって今日がある」と掲示した。命はめぐることで、お念仏、阿弥陀さまの救いのおはたらきに出遇う今日がある、という意味である。

 親鸞聖人(以下、宗祖)の有名な和讃に、恩徳讃がある。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

 この和讃の意味は、私たちをお救いくださる阿弥陀仏の大いなる慈悲の恩徳と、教え導いてくださる釈尊や祖師がたの恩徳に、身を粉にしてでも骨を砕いてでも、深く感謝して報いていかなければならない、という意味である。
 阿弥陀さまは、私たちを救うために、五劫という気の遠くなるような時間をかけて思案されて、兆載永劫という、これまた途轍もなく長い時間、身を粉にして、骨を砕くようなご労苦を全うして仏さまとなられた。そして私たちが、阿弥陀さまのことを知る以前から、私たちを優しく包み込んで、その功徳を南無阿弥陀仏というお名号に込めて、はたらき続けてくださっている。しかしその阿弥陀さまのことを、私たちに伝えてくださる先達がいなかったら、この先もずっと、阿弥陀さまの救いのおはたらきを知らないままで、お念仏に出遇うことはなかっただろう。私たちは、身を粉にしても、骨を砕きても、返しきれないご恩を、阿弥陀さまや先達からいただいている。
 先の加古氏の言葉の、「生命の設計書」のように、お念仏のことや、お念仏をいただくことが、先達を支えとしながら、お念仏に出遇う今日に受け継がれていく。
 遠く宿縁を慶べ、そんな宗祖の言葉が世界にこだまする、そんな世の中になれば良い。 

ありがとう

坊守 佐々木 ひろみ

 この寺報にも何度か書かせていただいたことのある、我が家の犬、ネオが、先日亡くなりました。昨年度末から糖尿病になり、朝晩の注射を続けていたものの、以前のように散歩にも行けるようになり、じゃれることもできるようになっていました。ただ、時々、足に力が入らずスムーズに立ち上がれないことがありました。それでも、年をとったからかな、元気でいてくれたらいいわ、と思っていたのです。これからもネオのいる生活が続くと思っていたら突然、でした。
 ネオは、それまでの飼い主さんが事情により飼えなくなったので、里親として2歳の時に我が家へやって来ました。犬の歳で少年だったネオは、よく甘えました。大きな体で飛びついてくると、私と同じぐらいの身長で、こちらがひっくり返りそうになる程でした。のちに、息子が生まれてからは、とても優しく見守ってくれました。息子が泣いていると、私を呼びに来てくれたり、私が息子を注意していると、間に入って「やめてあげて」と私の肩に手を置いてきたりしました。初めて息子を犬の散歩に同行させたときには、ゆっくり歩く息子のペースに合わせて歩いたり、息子が立ち止まっていると追いついてくるまで、絶対にそこを動かず待っていたりしてくれました。穏やかで、本当に優しい犬でした。また、人が大好きで、ご門徒が用事で来られると、喜んで迎えに出て、よく撫でていただきました。かわいがっていただき、ありがとうございました。
 お別れの日には、前の飼い主さんに連絡をしました。すると、都合をつけて、ネオに会いに寺まで来てくださいました。本当にかわいがっておられたので、ネオに対面されると、しばらくの間、話をされていました。そして、「また、会えるかな。」と言われました。わたしも同じ気持ちでした。ネオも、普段から住職のお勤めを近くで聞いていましたから、自らお念仏をいただくことはできなくても、ちゃんと阿弥陀さまに救われてお浄土にお参りしたかな。またお浄土で会えるかな。と思っていました。そして、ネオが自分の生涯を通して、改めて教えてくれたことがあります。それは、私たちが当たり前に生活する日常は、実は当たり前ではなく、死が突然訪れることがあるということ。また、それ故に、人生で生じる苦しみや喜びを噛みしめながらお念仏をいただき、他の生きとし生けるものと共に、互いに大切に思いやり、精一杯生きること。です。
 ネオに心からありがとう、と伝えたいです。

傾 聴

衆徒 佐々木 龍三

 1月に能登半島地震がありました。皆様の中には、お身内、お知り合いで被災された方がおられるかもしれません。被災された皆様に心よりお見舞い申しあげます。
 私は、昨年4月から保育園の園長を務めております。保育園との関わりの中で「傾聴」の大切さを改めて感じました。 
 「傾聴」について最初に学んだのは、東日本大震災の時でした。被災された方の多くは「自分の苦しみは同じ体験をした者にしか分からない」と思っておられます。安易に「お気持ち分かります」とか、「頑張って」と言うのは寄り添いにならないこともあり、逆に相手を辛くさせてしまうことがあります。すべての気持ちは分からないけれど、あなたの気持ちを少しでも分かりたいと傾聴を重ねて、しっかりと相手の思いを受け止めることが、本当に必要な支援に繋がる、寄り添いに繋がると学びました。
 園児との関わりでも同様のことを思いました。保育園では、次のような事例がよくあります。
 園児同士のトラブルで、ボールを持っているAちゃんがBちゃんを叩いて、Bちゃんが泣いています。それを見た私は、Aちゃんに問題があると、頭の中で即断してしまいました。もちろん相手を叩くことはよくありませんが、「どうしたの?」と、2人に事情を聴いてみると、BちゃんがAちゃんのボールを獲ろうとしたのが原因でした。Bちゃんにも理由があって、他のボールではなく、Aちゃんのボールが欲しかったと…。
 事情を深く聴かなければ、真実はわからないものですね。一部の状況や思い込みでの判断は、人の心を傷つける危険性があります。SNSでも問題になっていますね。大人になると、自分の経験の範囲で、自分の判断が正しいとすぐに思い込んで行動してしまうことが多くあるように思います。
 阿弥陀さまのように、人の心を見通せる智慧の眼があれば、すべてを一瞬で正しく理解できますが、そのような眼を持っていない私は、しっかりと人の話しを傾聴し、正しい事情と人の気持ちをわかろうと努めることが大事になります。傾聴は、エネルギーを要しますが、人の気持ちを受け止め、寄り添うことに繋がる第一歩です。
 「どうしたの?」と、どんなときでも傾聴を忘れないように心掛けていきたいと思います。