ご挨拶
住職 釋 龍生
新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます
去年は、世界のあらゆるところで争いの火種が絶えない、そんな年だった。ロシアによるウクライナ侵攻は、今年で2年に及んで継続され、終息する気配すらない。イスラエルとパレスチナ自治区・イスラム組織ハマスの紛争は、今もなお深い傷を刻み続けている。
「本願寺新報」で、戦場カメラマンの渡部陽一氏の、築地本願寺での講演の記事を読んだ。渡部氏は、今日、今、この瞬間も世界中で続いているたくさんの戦争や紛争で、一番の犠牲になるのは子供達だという。交戦するそれぞれの国や組織が、戦争や紛争に勝利するために、まず行うことは、敵対国や敵対組織の支配地域へのインフラの破壊だという。
インフラが破壊されて、機能しなくなると、一般市民や子供などの弱者は、丸裸で寒空の下に投げ出されるような状態となる。それは同時に、助かる命も助からず、ただ死を待つだけの状態、言わば罪なき命に死刑宣告をしている状況だといっても過言ではない。事実、大多数の子供の虐殺や、弱者の限界を超えた困窮の状況など、目や耳を覆いたくなるようなニュースが、昼夜を問わずひっきりなしにメディアを通して流される。そんな印象の一年だった。
先の「本願寺新報」の同号に、雑誌「御堂さん」に、25年前に特集された記事についてのコラムを読んだ。それは在家報恩講を伝える記事で、大田ひろさんという方が、阿弥陀さまのこと、世間のことを、自分の思いに絡めながら語る、というものである。
大田さんは、阿弥陀さまへの想いを、
こんな、どないもならんわがまま婆あを引き受けて必ず救うとおっしゃるんやから、せめて万分の一でもご恩報謝させてもらわにゃあ。
と味われる。そして世間のことを、
乱れきった今の社会で不足しているのは、ただ手を合わすこと。そして同じ方向、仏さまの方へ向くこと。みんな自分本位の勝手な方に向いとるから対立したり争ったりするんでしょが。
と。さらに、
互いに背を向けていたら、相手の気持ちがわからないし、自分もわからなくなる。互いに向き合って話すのもいいが、同じ家族で考え方も違うし、我を張りおうて言い争いもする。仏さんの方へ向いとったら、それぞれ思いの違う者同士が一つになれる。お慈悲さんの中ではみんな兄弟、これが在家報恩講のこころではないがけ。
と。
私たちは、誰一人として同じではない。誰しもが唯一無二の存在であり、それぞれがともに輝き合う存在である。しかしそれぞれの考え方や、世の中に身を置く立場の違いによっては、対立したり争いが起こったりする。この世の中を生き抜くには、それぞれの国や組織の考え方や文化、価値観の誇示、そして国益の保持が必要なのかしれない。しかし欲をどこまでも追求しても、たどり着くその先に真実などない。むしろ欲を追求すればするほど、どんどん真実を求める道から外れていくだけである。この世の中で、時が経つにつれて、おざなりになっているものを、先の大田さんの言葉が思い出させてくれる。阿弥陀さまに手を合わせる、その時は皆、阿弥陀さまに向かって、同じ方向を向いている。誰もが唯一の存在であり、それ故にそれぞれに違いはあれども、手を合わせる時は皆、同じ方向を向いて、ともにお念仏をいただく。
私たちは、煩悩具足の凡夫ゆえ、時の経過の中で、どうしてもおろそかにしてしまう阿弥陀さまのお慈悲への想い。その御手に包まれて、常に願われて人生を歩んでいることを、あらためて思い起こさなければならない。阿弥陀さまから届けられる大切なものを見つけるかのように、争いをやめて、互いに一つとなって、阿弥陀さまのお慈悲に、二心なく素直にお念仏をいただく、今年はそんな1年になればよい。
坊守 佐々木 ひろみ
あけましておめでとうございます
昨年は大変お世話になりました
本年もよろしくお願いいたします
昨年は、はっきりコロナ禍が明けた、とは言い切れませんが、少しずつ日常が戻ってきました。専教寺でも、3年ぶりに永代経法要、報恩講を行うことができました。この数年できなかったことが少しずつできるようになり、当たり前だった日々を取り戻し始めた感じがしています。先日、我が家でも、当たり前の尊さを感じたできごとがありました。
うちには、10歳になる犬(名前はネオ)がいます。人が大好きで、お客さんが来られると、喜んで部屋から出てきます。犬が苦手な方には申し訳ないのですが、門信徒で犬好きな方々には、かわいがっていただいています。私が仕事から帰ると、毎日、玄関まで迎えに来てくれます。ところが、先日、3日連続で、出迎えてくれなかったのです。部屋まで行くと、立とうとしても足が踏ん張れずに、体を起こすことができないのです。おかしいな、でも年を取ってきたのかな、と思っていると、ある日、痙攣を起こしてしまいました。とてもしんどそうで、見ているだけでもつらく、翌日、病院へ連れて行きました。その時には、もうぐったりして、自分では歩けなくなっていました。病院でいろいろ調べてもらうと、糖尿病であることが分かりました。日頃、食べているものは、ドッグフードと野菜ぐらいで、獣医さんによると、原因は分からないということでした。犬も糖尿病になるのかという驚きと、「救急です。危ない状態でした。」と言われ、間に合ってよかったという安堵、とはいえ、目の前で元気をなくしているネオへの心配・・・いろいろな気持ちが入り混じりました。
そして、数日入院しましたが、無事退院できました。ネオと仲良しの息子も心配していましたので、「ネオちゃん、帰ってくるの?よしよししてもいいの?」と喜びました。これから治療は続きますが、とにかく、家で一緒に過ごすことができるのは、うれしいことです。長い間一緒にいて、少しずつ年を取ってきたのは感じるものの、元気でそばにいてくれることが本当にありがたいなあと思いました。
改めて、「当たり前の日々」が、実は当たり前ではないという現実を感じました。当たり前の尊さに感謝の気持ちを忘れず、お念仏をいただく日々を過ごしていきたいと思います。
2024年新年号 専教寺寺報78号PDF(4.46MB)のダウンロードはこちらから