愛されて 思われて

住職 釋 龍生

 テレビを見ていると、児童虐待で子どもが死亡するというニュースが、後を絶たない。その内容は、どれも親のエゴや育児疲れと簡単に言葉で片付けられない惨憺たるものである。成長の途上である子どもという弱者の逃げ場を、瓶に閉じ込め栓をするかのようにいとも簡単に奪う。そして自分の支配下に置き、肉体的にも精神的にも完膚無きまでに痛めつけ、果てに命を奪う。虐待を受ける子どもの気持ちを考えると、筆舌に尽くしがたく、子どもを持つ私としては目や耳を覆いたくなるものばかりである。
 以前、ネグレクトという児童虐待をテーマとした桐野夏生氏の「砂に埋もれる犬」を読んだ。ネグレクトは、社会に巣立つ上で必要になる順応性や協調性を育む機会を奪う。ネグレクトを受けた子どもは、正常な社会に触れた時、育った文化が違うと感じるほど、また犯罪行為と日常生活での仕草の区別が全くつかないといった、独自の危うい世界を心の中に構築してしまうのかもしれない、と感じた。
 明川哲也氏の絵本「ぼく、あいにきたよ」には、虐待を受ける子どもの視点で、物語が描かれている。この絵本の中で、印象に残る描写がある。それは、

おかあさんが おこるときは、きっと ぼくが わるいのです。
おかあさんを おこらせてしまうのは ぼくなのです。
ぼくが わるいのです。

 また、

ぼくは、ぶたれながら、 おかあさんの そばに いた。
おかあさんの なみだが おちたのは、 ぼくの ほっぺ だったんだ。

 子どもは、生んでくれた親が人生の支えであり全てである。虐待を受ける子どもは、外の社会では、決して自分の親の悪口や虐待行為を公言せず、むしろ親の優しさを強調するという傾向があるという。親から、殴られようが蹴られようが、それでも人生の支えであり全てである親を一番大事に思い、愛されたいと願い続けるのである。
 どのような事情や原因があるとしても、子どもの人権を不当に奪う児童虐待という負の連鎖は、社会生活を営む個々が責任を持ち、社会全体で確実に断ち切るよう解決していかなければならない。子どもが人生の全てを賭けて親を愛し、思い続ける気持ちにしっかりと応えるために。
 私たちも、私たちのことや生きとし生けるものを、仏の子として、生涯において、愛し、思い続けてくれる存在がある。その阿弥陀さまという仏さまは、自らが用意される浄土に私たちを救って、同じ仏さまとするという願いを誓って、叶えてくださる。その主な願いは、四十八の願いの中の十八番目の願い、

私が仏になる時、全ての人々が、私の願いを心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、私は決して悟りを開きません。

と。そして阿弥陀さまは、そのままでいいよ、ありのままのあなたをそのまま救うよ、と南無阿弥陀仏という救いのはたらきとなって、私たちの体に染み入るように、私たちに寄り添い、愛し、思い続けてくださっている。「歎異抄」に煩悩具足の凡夫という言葉が出てくるが、この言葉は他に向けられた言葉ではない。阿弥陀さまが、私たち全ての生きとし生けるものに向けられた言葉である。煩悩具足の凡夫だからこそ、この世でいかなる努力をしても仏となることはできない。しかし煩悩具足の凡夫だからこそ、阿弥陀さまの愛すべき救いのめあてとなるのである。阿弥陀さまは、私たちを救うために、易しいことこそ尊くと、お念仏ひとつを選び取られた。私たちを救うために、五劫という思い測ることのできない長い間、考えられて、兆載永劫という推し量ることのできない長い間、ご修行されて、私たちを救い取る願いを叶えられた。
 今年は3年ぶりに永代経法要をおつとめする。阿弥陀さまの救いのはたらきにより、命終わるとすぐにお浄土に参り、仏さまとなられた先達やご先祖を偲んで、また常に私たちに届けられる阿弥陀さまのお救いに感謝して、久しぶりにともに、なんまんだぶつとお念仏をいただきたい。

読み聞かせをきっかけに

坊守 佐々木 ひろみ

 コロナ禍によるいろいろな制限が少なくなり、今年の春は、暖かい気候に合わせて多くの人が外出を楽しんでいるように見えます。専教寺でも、3年ぶりに永代経法要の門信徒参拝を再開します。従来より時間は短くなりますが、ご門徒の方々と久しぶりにお会いして、一緒にお参りできると思うと、とてもうれしいです。
 さて、最近考えさせられたことについて書いてみようかと思います。息子が0歳の時から、時間があるときには、絵本を読み聞かせしてきました。今年の2月に、こども園で親子読書週間という取組がありました。それをきっかけに、その週間が終わっても、寝る前には毎日1冊読むようになりました。その日に読みたい本を、息子が本棚から選んできます。
 先日、息子がある絵本を選びました。そのあらすじは、次のようなものです。台所にあったジャガイモがネズミにかじられてしまいます。それを知ったジャガイモの友達の野菜たちと、ボウルや鍋などの台所用品が力を合わせて、ネズミを懲らしめる、という話です。幼い子どもに分かりやすい、とてもシンプルな話でした。ところが、本を読み終えると、「これは、こわい話だね。前にも読んだことがあるけど、こわいからいやなんだ。」と言うのです。訳を聞くと、「だって、ネズミさんに『やめて』って言ったらやめたかもしれないのに、みんなで集まってネズミさんだけにいじわるしてるんだ。こんなのダメだよ!」
 私は、「悪いことをした者が懲らしめられる話」と疑うことなく思っていましたが、息子にしてみれば、「みんなで一人をやっつけるいけない話」だったのです。これには、こんな見方もあるのかと驚きました。
 以前、本山の新聞、本願寺新報で『仏説阿弥陀経』について書かれている連載を読ませていただくことがありました。『仏説阿弥陀経』の一節に、

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光

とあります。阿弥陀さまのお浄土にさく蓮の花のありさまを語られた言葉だそうです。そこに咲く青い色の花には青い光がさして青く輝き、黄色い花には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光がさして、それぞれが光り輝き、自らの色そのままで光輝いて咲くことが尊いということです。
 読み聞かせをした絵本は、そこまで深い意味はなかったのかもしれませんが、「ネズミは悪者」と思い込みで読んでいる私自身は、「生きていくためにジャガイモを食べたネズミ」「本当は居心地のよい台所にずっといたかったネズミ」、また「仕返しをした野菜たち」から「友達思いのニンジン、タマネギ」・・・いろいろな角度から登場人物を見るということに気付かされました。それぞれが一生懸命で、それぞれが自分を輝かせていると思うと、物事を一面から見て決めつけずに、それぞれの輝きに気付いていきたいと感じました。

合掌・礼拝

衆徒 佐々木 龍三

 私は、今年1月から、京都市左京区にある本願寺北山別院に勤めています。この別院内には、「御聖水」と名付けられた湧水があります。親鸞聖人が29歳のとき、比叡山を下山され京都の六角堂に参籠されました。その道中、清らかな水が湧き出ていた北山の地で、喉を潤し、お身体を拭い、休息されたと言われています。この親鸞聖人のご遺徳を偲んで「御聖水」と名付けられ、この別院は親鸞聖人のご旧跡になっています。
 この別院の境内に保育園があります。毎月1回、保育園の園児が別院にお参りしてくれます。
 私が園児に話す機会があり、合掌・礼拝のお話をしました。
「阿弥陀さまは、いつでも、どこでも一緒にいてくださる仏さまです。うれしいときには、一緒に喜んでくださり、悲しいときには、一緒に悲しんでくださいます。ナモアミダブツは、阿弥陀さまありがとう、というお礼の言葉です。ナモアミダブツと称えて美しい姿で合掌・礼拝すると阿弥陀さまも喜んでくださいますよ。それでは、皆さんに質問です。仏さまにお礼をする以外に、合掌・礼拝するときはありますか?」
 すると園児の1人が「ご飯を食べるとき、いただきます・ごちそうさまをするよ」。私が「どうしてご飯を食べるときに、合掌・礼拝するの?」と聞くと、園児の1人が「牛さんや豚さんのいのちをいただくから」と答えてくれました。よく理解しているなあ、と感心したことです。
 その後、私は、食べ物となってくれた動植物は、もっと生きたいと思っていたかもしれない、そんな動植物のいのちをいただいて私たちは生きていること、食事が提供されるまでに携わってくださった多くの人、水や太陽などの自然の恵み、それらすべてに感謝して、いただきます・ごちそうさまと合掌・礼拝することをお話しました。
 合掌・礼拝は、他への敬い、ご恩などへの感謝を表わす意味があります。皆さんは、日頃どのくらい合掌・礼拝されていますか。または、どれくらい「ありがとう」などの感謝の言葉を言われているでしょうか。
 園児には、「ナモアミダブツ」はお礼の言葉と話しましたが、「ナモアミダブツ」は、阿弥陀さまからの「我にまかせよ、必ず救う」という私への喚び声です。その喚び声に、私からは「阿弥陀さまにおまかせします。ありがとうございます」と感謝の思いで「ナモアミダブツ」と称えます。先立たれた大切な方々も阿弥陀さまのお浄土で仏となって生まれ、いつも阿弥陀さまと一緒に見守ってくださり、私が同じお浄土で仏になることを願ってくださっています。
 日々、阿弥陀さまや仏さまにお念仏して合掌・礼拝する、お仏壇へのお参りを大事にしていただけたらと、そのように思います。
 先日、冊子で、バスを降車したおばあちゃんが、出発したバスに向かって、合掌・礼拝していたという文章を読み、ハッとさせられました。周りには私が思っている以上にお陰様があるのに、当たり前になっていて、あまりにも気づけていないことに。