ご挨拶

住職 釋 龍生

 新年あけましておめでとうございます
 今年もよろしくお願い申し上げます

 作家の朝井リョウ氏の小説「正欲」の冒頭に、次の文が綴られている。

 たとえば、街を歩くとします。
すると、いろんな情報が視界に飛び込んできます。(中略)
昔は、その情報のひとつひとつが独立していました。たとえば、電車の壁にずらりと並んでいる、英会話を学ぼうとかダイエットをして健康になろうとか、そういう前向きな雰囲気のメッセージたち。子どものころ、それらはあくまで、「英会話を学ぼう」「健康になろう」と、各々が独立した主張をしているように見えていました。(中略)
だけど、私は少しずつ気付いていきました。一見独立しているように見えていたメッセージは、そうでなかったということに。世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体がいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていくことに。
その〝大きなゴール〟というものを端的に表現すると、「明日死なないこと」です。
目に入ってくる情報のほとんどは、最終的にはそのゴールに辿り着くための足場です。

 この文を読みながら、お参り先でのご門徒とのやり取りを思い出す。
 そのご門徒はある法座で、「どうすれば死を恐れずに生きていけるか 」、おおよそこのように投げかけられた質問に、どう答えていいのか分からずにその場を静観していたが、他のご門徒は皆、同一に答えたという。その答えは「もっと自覚を持って浄土真宗のみ教えのお聴聞をすること」。
 そうだと良いのだが。親鸞聖人(以下、宗祖)は、弟子の唯円による聞書「歎異抄」の第九条に、

 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。

 この意味は、「念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど涌いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです」、ということである。
 人間もとより動物は、生理的に未体験の事柄を恐れる傾向にある。「生まれる」ということは、この世に誕生した時に、一番最初に体験することであり、「生きる」ということは、誕生より現在に至るまで体験中である。しかし「死ぬ」ということは、現在において誰もが未体験の事柄である。実際に生の対極にある死に瀕することは、たとえみ教えを真剣にお聴聞していたとしても、煩悩が体を支配する生物の本能としての拒絶はなす術がない。
 しかし、「もっと自覚を持って浄土真宗のみ教えのお聴聞をする」ということは、人生を生きる上で大きな安心感を与えてくれる。誰もが死を抗う中で、その死の先に、「小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように」、新たに生まれ、救われていく世界(お浄土)が、阿弥陀さまによって用意されている。また阿弥陀さまによる私たちが推し量ることのできない大きなはたらき(南無阿弥陀仏)は、私たちを確実に仏とすること、救うことを約束される。お経に示される阿弥陀さまの真実のご教示は、生きる上での大きな信頼感となり、また生きづらい世の中を歩いていく上での大きな励みとなる。
 生きる上で、抗うことのできない未体験の死を、明確に意識しながら生きる動物は人間だけだという。冒頭の朝井リョウ氏の文のように、私たちの生きる社会は、「明日死なないこと」ということで必然として構成している。
 今年は人流の緩和によって、寺社仏閣への初詣で賑わうだろう。新たな年を迎えて、自らの穢れを神仏に祓い清めていただくと同時に、新たな年が良い年になるよう、どうか一年間大きな災難にあうことなく無事過ごせますように、と願い祈るのが大半であろう。しかし、浄土真宗でいう願いや祈りとは、神仏に何か利己的なことをを請い願うのではなくて、南無阿弥陀仏というはたらきに、親が我が子を抱きとめるように、常に生きる上での安心感を与えられることや、仏さまからいただく信心(信じる心)によって救うことを約束されることに、お念仏をいただいて感謝するということである。
 「一寸先は闇」という言葉、世間では悪い意味での慣用句として使われるが、作家の五木寛之氏は悪い言葉ではないという。明日、明後日のことよりも、生かされているこの日、この時、この一瞬、お念仏をいただく今を大切に無事に過ごす。私の今年のイチオシの慣用句としたい。

参考 
「正欲」 朝井リョウ 新潮社
「読売新聞」

坊守 佐々木 ひろみ

 あけましておめでとうございます
 昨年は大変お世話になりました
 本年もよろしくお願いいたします
 
 今日の新規感染者数は〇千人という報道、それを聞いて「多いなあ」というつぶやきを繰り返す毎日に慣れてしまったこの頃。それでも、緊急事態宣言などで制限されることなく、人の流れは少しずつ復活しつつあります。矢掛町では、昨年、三年ぶりに大名行列も行われました。息子は、矢掛放送で見たことのある「下に~下に~」という声と歩き方を真似て、大名行列にあこがれていましたので、初めて見られると知ったときは大喜びでした。当日は、「昔の人に会える?」「下に~下に~が聞こえてきたよ!早く行かなきゃ!」と大はしゃぎでした。家に帰ると、行列の人がしていた動きを、できるようになりたてのケンケンで「ほら、見て見て!」と真似ていました。初めて見られたことがとてもうれしかったようです。いつも寺報では、息子の話題を書かせてもらうことが多く、恐縮ですが、行動範囲の狭い生活をしていますので、お許しください。 休みの日は、専ら近所の公園へ出かけます。息子は、とにかく誰かと一緒に遊びたいので、公園に着くやいなや、初めましての友達にすぐに声を掛けます。先日は、同じぐらいの歳の友達を見つけて、「ねえ、一緒に鬼ごっこしよう!」と誘いました。いいよ、と言ってもらうと、「じゃあ、一緒に逃げよう!」と手をつないで行ってしまいました。「えっ?鬼は?何から逃げてるの?」と私は心の中でつっこみながら、思わず笑ってしまいました。何だか心和むひとときでした。今、この時期にたくさんのものを見て、いろいろな経験をさせてやりたいと切に思います。
 専教寺では、昨年も法要の門信徒参拝は中止しました。緩和の流れで、するべきかとも一瞬考えましたが、いや、密になった本堂で、多くの人が声を出したり、お斎をいただいたりする・・・皆さんの安全を考えると、やはりまだ無理だな。という結論に至りました。お寺に集まりたい、皆さんと会いたい、という声を聞くことがあります。私たちもそう思っています。皆さんが安心してお寺で一緒にお参りできる日が早く来ることを願っております。多人数で集まることは、まだできませんが、不定期に総代会を開いて、門徒総代の方々にお寺の運営に関わる協議や、墓地参道の草取り、境内池の清掃などをしていただきました。仏教婦人会の役員さんには、寺報の発送作業をお手伝いいただいています。
 専教寺を支えてくださっている皆様に改めて感謝申し上げます。