兵戈無用 恒久的な平和がもたらされるように

住職 釋 龍生

 ロシア連邦がウクライナへの侵攻を開始して、1ヶ月が経過しようとしている。しかし事態は依然として平行線を辿り、改善の糸口が見えないどころか、ウクライナ国内や国民に甚大な被害をもたらし、長期化の様相を呈している。
 テレビのニュースで、ウクライナの都市、イルピンでの映像が流されていた。ウクライナの兵士だろうか、胸から腰にかけて武器をぶら下げている。その兵士の子供だろう、まだ年端もいかない子供が、その父親に抱きかかえられる腕の中で、父親のかぶるヘルメットを何度も叩き、泣きじゃくりながら別れを嫌がっている。同じ年頃の子供を持つ私にとって、その光景はあまりにもショッキングで、目頭を熱くさせられた。
 約80年前、我が国日本でも同じような光景がくりかえされていたのではないだろうか。狂わんばかりに士気高揚して、幾重にも振り乱れる日本の国旗。その光景を背に出征する父親にまだ幼い子供が、「お父ちゃん行かないで」としがみついて泣きじゃくる。当時の戦時統制下の日本では、幼い子供でも、兵隊である父親との別れに対する感情を、純粋に表現することさえ許されなかったのではなかろうか。当時の日本に思いを巡らせながら、あらためて父親として、経験者である日本人として、関わる全てのものを不幸にする戦争というあやまちを二度と犯してはならない。テレビの画面で連日繰り広げられるロシア軍によるウクライナ侵攻の光景に、胸が締め付けられる。
 浄土真宗の所依の経典、浄土三部経の「仏説無量寿経」に、「兵戈無用」という言葉がある。この意味は、仏さまの救いのはたらき(お念仏)に出遇うことで、その教えに導かれ、世の中は平和に治まり、民衆も武器を手に取り争うことなく、互いに礼儀を重んじ、思いやりや譲り合いの心を持って平穏に暮らすことができる、という意味である。お釈迦さまの時代も戦争が絶えなかった。それぞれの国の軍隊が、自国の利益を貪るために武器を手に取り殺し合う。この時代も戦争の犠牲になるのは力無き民衆や子ども達だったのではなかろうか。そしてお釈迦さまはその現実を目の当たりにされていたのではないだろうか。
 浄土真宗本願寺派は、「ロシア連邦によるウクライナ侵攻に対する声明」の中で、「いかなる理由があろうとも、人命を軽視し、武力で一方的に現状を変更しようとする暴力的な行為に抗議し強く反対の意を表します。」と、また「思想文化や制度による厳しい対立や相互の排除をのり越えて、自他共に心豊かに生きていけるよう、共に努力する先にこそ、恒久的な平和を実現する道が切り拓かれてくるものと確信いたします。」と発表している。(一部を抜粋して掲載)
 以前、お寺の掲示板に、画家の山下清の言葉を掲示した。その言葉を最後にあらためて味わい、一刻も早くウクライナに恒久的な平和がもたらされることを切に願う。

 みんな爆弾なんかつくらないで、
 きれいな花火ばかりつくっていたら、
 きっと戦争なんて起きなかったんだな

戦争に関わる報道を見て

衆徒 佐々木 龍三

 中国新聞に、太平洋戦争中に広島県三次市にある浄土真宗本願寺派のお寺へ学童疎開し、後に「原爆孤児」となった被爆者の川本省三さんの記事が掲載されていました。
 川本さんは、原爆が投下された8月6日、畑の開墾作業をしていて、広島市の方角に白い煙を見たといいます。ご自身は3日後に広島市へ戻り被爆し、両親ときょうだい4人は原爆の犠牲になりました。
 その後は、国鉄広島駅前で鉄くずを集めて日銭を稼ぎ、時には捨てられた新聞紙を喉に押し込んで飢えをしのいだといいます。
 川本さんが戦後を生き抜く上で、心の支えとしたのが「寺での学び」でした。毎朝のお勤めで心を静め、手を合わせる所作を通じて周囲に感謝する気持ちを育まれたそうです。
 川本さんは、子どもたちに「話し合い、理解し合い、感謝し合えば、争いは起きない」、「みんなの手は、誰かをいじめたり、傷つけたりするためにあるわけじゃない。互いに助け合うためにある。感謝の気持ちを忘れないよう、仏さまに手を合わせてほしい」と話されているそうです。
 阿弥陀さまと仏さまになられた大切な方々は、私が苦しみの迷いの世界から救われるよう願い続けてくださっています。私のために有り難いことです。
 さらに、阿弥陀さまは、私のいのちだけでなく、生きとし生けるもの、すべてのいのちに願いをかけられています。親鸞聖人は、すべてのいのちが阿弥陀さまから平等に願われたいのちだから、お互いは「御同朋」(お念仏の仲間)だと、共に敬い助け合う生き方を教えてくださいました。
 また、人生を振り返ってみますと、私のいのちは、1人で生きてきたいのちではないことに気づかされます。私に至るまで、数えきれないほど多くの先祖から、祖父母、両親のいのちが繋がって授かったいのちであり、家族や友人、知人などによって育まれてきたいのちであり、多くの生きものに支えられているいのちです。このように、お互いが関わり合って存在していることを、仏教では「縁起」といいます。私のいのちは、様々なご縁をいただいて生かされているんですね。
 世界情勢について大きく報道されていますが、世界中で起こるさまざまな出来事も、私と無関係ではありません。様々なご縁のつながりに思いを寄せるとともに、阿弥陀さまや仏さまに手を合わせ、私を支えてくださっているすべてに感謝の気持ちを忘れず、共に敬い助け合う生き方を心がけていきたいものです。

ほほえましい二人

坊守 佐々木 ひろみ 

 「ピンポーン」とインターホンが鳴ると、対応する大人の後ろに続いて、3歳の息子、それに続いて犬がついてきます。来寺された門信徒の方は、このような光景を見ておられると思います。息子は、いろいろ話せるようになったことがうれしくて、人が来られると喜んでお話ししに行こうとします。でも、自分がしゃべりたい気持ちが強すぎて、時には皆さんにご迷惑をおかけしてしまっているので、この場を借りてお詫びいたします。
 今回は、この息子と犬の話をさせていただこうと思います。
 犬は、8歳のゴールデンレトリバー、名前はネオです。ネオは、5年前に里親としてもらった犬で、来たときから体重は30㎏ぐらい、とび付くと私の身長と同じくらいありました。人が大好きで、おとなしい性格です。前の飼い主がそうしていたということで、我が家でも室内で飼うことになりました。
 息子が産まれると、家族は、ネオが寂しくないように、嫉妬しないようにと、これまで以上にネオをかわいがるようにしました。息子が大きくなるにつれて、ネオに興味を示すようになり、ふわふわの毛に触りたい、大きな体につかまってみたい、と積極的に近づいていくようになりました。ネオは、上手に相手をしながら、決して怒ることなく見守ってくれています。
 ある日、息子が危ないことをしたのを、私が注意しました。すると、そこにネオが割って入ってきて、私の肩をトントンと叩くのです。まるで「やめてあげて。怒らないであげて」と言うように。ネオなりに息子を守ろうとしてくれているのだなと感じてうれしくなりました。
 また、先日、ネオを動物病院に連れていかなくてはならなくなりました。ドライブが大好きなネオですが、車に乗った途端、何かを感じてクォーンと鼻を鳴らして不安がりました。すると息子が、「ネオちゃん大丈夫。ぼくがついているから。」と声を掛けました。何とも頼もしい言葉でした。
 この2人、べったりではないけれども、お互いに自分が相手を守らなければと思っている、すてきな関係に見えます。見ていると微笑ましく、幸せな気分になります。